日本バスケ界のレジェンド、田臥勇太選手。
高校バスケ史上初の3年連続3冠、日本人初のNBAプレーヤーと、華々しい経歴を持ち、2023-24シーズンは宇都宮ブレックスでキャプテンを務めてきました。
近年は、プレータイムは少ないものの、コートに立つと対戦相手のブースターからも歓声が湧くなど、その注目度や人気は変わらず、私自身も「少しでも多くのプレーを見たい!」と願っているひとりです。
今回はそんな田臥勇太選手のすごさについて、特に高校時代、そしてスラムダンクとの関係について、まとめてみたいと思います!
<この記事で分かること>
- 田臥勇太選手のプロフィール
- 中学校時代の田臥勇太選手はどんな選手?
- 田臥勇太選手の高校時代はどれくらいすごいのか?
- 山王工業のモデルは能代工業?
- 田臥勇太選手が憧れていた能代工業とはいつ頃?
田臥勇太選手のプロフィール
田臥 勇太(たぶせ ゆうた)
生年月日:1980年10月5日
出身地:神奈川県横浜市金沢区
身長 173cm/体重 77kg
ポジション:PG
出身校/チーム
矢部バスケットボールクラブ(矢部小学校ミニ)
横浜市立大道中学校
秋田県立能代工業高校
ブリガムヤング大学ハワイ校
トヨタ自動車アルバルク
ロングビーチ・ジャム
フェニックス・サンズ
ロサンゼルス・クリッパーズ
アルバカーキ・サンダーバード
ベーカーズフィールド・ジャム
アナハイム・アーセナル
リンク栃木ブレックス(栃木ブレックス/現 宇都宮ブレックス)
バスケ経験者だった母親の影響で、小学校2年から矢部小学校ミニで経験を積むことになります。小学校は大道小学校に通っていましたが、元々大道小学校のバスケチームを指導していた先生が矢部小学校へ赴任した関係もあり、矢部小学校のバスケチームで活動するようになったそうです。
中学校時代の田臥勇太選手はどんな選手?
中学は大道中学校へ進学し、中学3年時に全国中学校バスケットボール大会で3位になりました。
中学生3年生の時の田臥勇太選手の貴重な試合映像です。
全国中学校バスケットボール大会準決勝。
大道中学校(紺色)の4番が田臥勇太選手。
対戦相手である京都の洛西中学校(この試合に勝ち優勝)のキャプテン(4番)は、田臥勇太選手と同じく能代工業へ進学し、バスケ部のマネージャーとなる前田浩行さん。
現在は三遠ネオフェニックスでコーチをしています。
洛西中学校の12番は、現在京都の東山高校バスケ部の監督をしている大澤徹也先生。
大道中学校はこの試合で負けてしまいますが、こんなエピソードがあります。
準決勝で洛西中学に負けたのだが(その後、洛西が優勝)、田臥のプレーが他と一線を画すレベルの高さだったことを示すエピソードがある。なんと、㈱ベネッセコーポレーションの進研ゼミ『中学講座』のCMに登場する中学生として白羽の矢がたったのだ。優勝チームからではなく、ベスト4の田臥が選ばれたことこそ、田臥のプレーが非凡だったことを証明するものといっていいだろう。
試合を見ていた関係者から、CM出演のオファーが来るなんてすごいですよね!
幼さが残るかわいらしい田臥勇太選手ですが、 プレーのすごさが際立っていたのもうなずけますよね。
【29 DAYS ―BE LEGENDARY 伝説と共に―】
2023-24シーズン、ホーム開催日会場にて、朝山選手にゆかりのある方からのメッセージをお届けする”BE LEGENDARY”企画。本日よりいただいたメッセージ動画と共に、カウントダウンを残していきます。
本日は #宇都宮ブレックス #田臥勇太… pic.twitter.com/yvSk5R4uxd
— 広島ドラゴンフライズ (@HIROSHIMADFLIES) April 6, 2024
2023-24シーズンで引退表明をした広島ドラゴンフライズの朝山正悟選手とは、田臥勇太選手が中学2年生の時の県別対抗戦ジュニアオールスター神奈川代表のチームメイト。
プロ選手になってから接点が少ない選手とも、意外なところで接点があるというのも興味深いですよね。
田臥勇太選手の高校時代はどれくらいすごいのか?
田臥勇太選手は、1996年に秋田県立能代工業高校(現 能代科学技術高等学校)へ進学します。
1933年に創部された能代工業高校バスケットボール部は、1967年の国体で初優勝してから、インターハイ優勝22回、国体優勝16回、ウィンターカップ優勝20回、インターハイ7連覇、3年連続3冠と高校バスケ界の歴史に、記録にも記憶にも残る成績を残しています。
田臥勇太選手が能代工業に入学してから、スタメンは当時2年生の畑山陽一さん(早稲田大学)、小嶋信哉さん(専修大学→大学卒業後はラグビー選手に転向)、1年生の若月徹さん(筑波大学)、菊地勇樹さん(専修大学)、そして、田臥勇太選手で2年間固定されました。
勇太が本当にすごかったんで、『一緒にやれれば楽しいだろうな』って。
引用:集英社オンライン
山形が地元だった同級生の若月さんは、地元の山形の強豪校への進学を漠然と考えていたそうですが、田臥勇太選手の存在が刺激となって入学したといいます。
出典:集英社オンライン
という書籍では、田臥勇太選手が在籍していた頃の能代工業とその後について、丁寧な取材とともに記されています。
元々、能代工業は人気がありましたが、田臥勇太選手が在籍した頃の能代工業は体育館が超満員となるほどでした。
こちらの映像は、田臥勇太選手(8番)が2年生の時の オールジャパン(今でいう天皇杯)。能代工業の対戦相手は実業団の東芝(現 川崎ブレイブサンダース)。
観客の盛り上がりや熱量が伝わってきますよね。
現在のようにバスケのプロリーグもなく、実業団バスケがニュースで取り上げられたり、テレビで中継されるとしても天皇杯の決勝戦のみという時代。インターネットも盛んではなく、携帯にカメラ機能もなければ、動画配信などもなく、バスケの試合を動画で見たい場合は1本6000円ほどのビデオを通販で購入する時代です。
引用:月刊バスケットボール
(ビデオは、秋田県のリアルタイムさんという会社が制作しており、月刊バスケットボールに掲載されている一覧から試合を探して購入していました)
情報を手に入れるツールも限られている中で、バスケットというスポーツの試合でこれだけの動員と盛り上がりというのが、いかにすごいことだったか。能代工業の人気ぶりがいかにすごかったかがうかがえます。
山王工業のモデルは能代工業?
有名な話ではありますが、スラムダンクの山王工業高校のモデルは能代工業高校です。
実際に、作者の井上雄彦先生が何度も取材に訪れたといいます。
また、映画「THE FIRST SLAM DUNK」の山王工業の応援は、能代工業バスケ部OBの新岡潤さんが音響監修を務めていました。
出典:集英社公式サイト
田臥勇太選手は、小学校5年生の時に友達に読ませてもらったことがきっかけでスラムダンクと出会ったといいます。
「ちょうど高校にいる時に山王戦を読んでいたので、もちろん(山王工業と能代工業が)かぶりました。だから夏にOBが来るとかっていう話とかも描かれていて、ほんと一緒だよと思ってました(笑)。でも僕らというよりも、何年か前の先輩たちがモデルになっているのかなと思っていて、逆に僕らが憧れた能代が作中に…っていう不思議な気持ちと憧れが交錯しながら読んでいましたね。
引用:ヤングジャンプ公式サイト
田臥勇太選手が語る「何年か前の先輩たちがモデル」「僕らが憧れていた能代」というのはどのあたりの世代のことを指しているのでしょうか?
田臥勇太選手が憧れていた能代工業とはいつ頃?
能代には、「能代バスケミュージアム」という秋田のバスケに特化したミュージアムもあるほど、バスケットが街の象徴となっています。
田臥勇太選手が能代工業に入学する前の年、1995年のウィンターカップ(第26回高校選抜)の特集が組まれた、1996年3月号の月刊バスケットボールには『Dr.Tのウィンターカップ観戦記~井上雄彦、ウィンターカップを描く~』というマンガがカラー4ページに渡り掲載されています。
出典:月刊バスケットボール
表紙にも井上雄彦先生による当時の能代工業のエース、高橋尚毅選手(能代工業⑦→日本大学)が描かれています。
観戦記は「湘北―山王工業戦も佳境に入り 私の苦しみも深まる」という一文から始まり、「大濠を終盤の大逆転劇で破った仙台…終盤の大逆転劇…その伏線はあったな…」という言葉、そして、能代工業との決勝戦で肩を脱臼して一度コートから下がるものの、再びコートに立った仙台高校の二戸選手(仙台→法政大学→日立)に対して
二戸君 大舞台での肩の脱臼は悔しかっただろう でもそれは…
バスケットの神様が君に与えた試練かもしれないよ…………引用:月刊バスケットボール
という言葉があります。
終盤の大逆転劇、主力選手の大舞台でのケガ(そして、ケガを押して試合に戻る)、という部分は、山王工業戦での湘北高校の大逆転劇や、桜木花道のケガを思い出させますよね。
こちらは1995年のウィンターカップの決勝戦「能代工業vs.仙台」の映像です。月刊バスケットボールの表紙を飾っていた能代工業の高橋尚毅さんは山王工業の沢北のモデルともいわれています。
白いユニフォームと赤いユニフォームというのも、山王工業と湘北高校を彷彿とさせるものがありますが、この時点では連載は既に「山王工業戦の佳境に入っている」とのことですので、その点は偶然かもしれません。
そう考えると、1995年のウィンターカップは山王工業戦の終盤のヒントにはなっていますが、実際の強い能代工業のイメージやモデルはさらに上の代なのだろうと考えられます。
ちなみに、少し上の代の日本代表にも選ばれた経験を持つ、206cmの能代工業OB・関口聡史さん(能代工業→日本大学→トヨタ自動車)は、河田美紀男のモデルと言われています。
河田美紀男と沢北栄治。#グレパー#山王工業 #スラムダンク #関口聡史さんあざます!#実在モデル#沢北の方は#単なるワナビー pic.twitter.com/JvaDjSslci
— 小林拓一郎 (@kobataku33) August 22, 2021
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また、少し話はそれますが、作中ほとんど描かれることがなかったにもかかわらず、印象に残っている読者が多い大栄学園の土屋淳のモデルは、大商学園の梶山信吾さん(大商学園→日本大学→三菱電機→名古屋ダイヤモンドドルフィンズGM)ではないかという説があります。
梶山信吾さんの学年は、前述の高橋尚毅さんたちの1学年上となり、
1994年のウィンターカップで国学院久我山に勝ち、優勝をしています。
また、その梶山信吾さんの日本大学でのチームメイト(同学年)には、かつてストリートバスケ「LEGEND」で活躍していた鈴木淳(JUN)さんもいました。
鈴木さんはスラムダンクの仙道彰のモデルとも言われ、映画「THE FIRST SLAM DUNK」ではモーションアクターとして参加しています。
井上雄彦先生は、公園のバスケットボールコート設置のための「PICK UP PLAYGROUND」という活動にも関わっており、ロゴも井上先生が作成しています。
出典:https://www.webuomo.jp/culture/archive/180222/area03/
「PUP」のロゴには、「スラムダンク」の赤い髪の天才…がちらっと見えています。この活動を、あまり出しゃばることなくそっと後押ししていきたいという、私の気持ちの表れだと思っていただければ幸いです。
日本バスケ界への貢献という面で、ストリートバスケに対しても感謝の念を持っていたという井上先生が、「THE FIRST SLAM DUNK」のモーションアクターをストリートの選手に依頼したといわれています。
出典:朝日新聞デジタル
井上雄彦先生は、『SLAM DUNK』の印税の一部と、アイティープランニング有限会社、株式会社集英社の拠出金によるスラムダンク奨学金という制度を2006年に設立。既に多くの奨学生がBリーグで主力選手として活躍しています。
井上先生は田臥勇太選手との関りも深く、対談などからもバスケに対する愛情や、日本のバスケ界に対する熱い思いが感じられますよね。
まとめ:田臥勇太選手のスラムダンクとの関係や高校時代は?山王工業のモデルは能代工業?
今回は、日本バスケ界のレジェンド・田臥勇太選手について、そして能代工業高校バスケットボール部、スラムダンクについてもまとめてみました。
パリ五輪を控え、ますます人気が高まると思われる日本のバスケットボール。田臥勇太選手の来季の動向も気になりますが、少しでも長くプレーを楽しませてもらえることを願いたいですね!